全共闘秘録

~68/72日大闘争、その「隠された栄光」についてのモノローグ~

9.30大衆団交勝利の瞬間

「グラフ日大闘争」(五同産業出版部)より

EPISODE №4

「栄光の二百メートル・デモ」をさかのぼること三か月ほど前、この日(1968年2月16日)の夜、田村正敏とわたしたち弁研(哲学科弁証法研究会)の面々は、当時、駿河台にあった中央大学の中庭にいた。ひどく寒い夜だった。宵の口だったにもかかわらず、中庭の石畳にははやくも薄氷がつきはじめ、REGALのスリップ・オンは滑って歩きにくかった。

田村からの強引な誘いを断りきれず、とうとうこんな場違いなところまでやってきたのは、前年11月からはじまった学費値上げを発端とする中大闘争が、この日、ようやく大団円(全学大衆団交)を迎えようとしていたからである。

中庭の一隅で二、三百人の学生が集会を開いていた。だが、かれらは「主役」の全学闘(全学闘争委員会)ではなく、ほとんどが学外からの「助っ人」、つまり党派の外人部隊であった。

校舎の奥からレポ役の学生が小走りに駆けよって、奥まった講堂で開かれている団交(中大当局は「全学大衆会見」と称していた)の様子をつたえている。

そのつど、集会に集まった「助っ人」がシュプレヒコールで講堂にいる全学闘に声援を送り、理事会に圧力をかけている。時折、怒号や歓声が聞こえてくるが、参加人員五千人弱(大学資料)の団交そのものは整然と進行しているようだった。

当時、学費値上げを発端とする学園闘争は、慶応義塾大学(1965年)、早稲田大学(1966年)、明治大学(1967年)とつづき、首都圏の有力私学では中央大学が四例目であった。

だが、慶応をのぞけば学園闘争は立て続けの二連敗である。早稲田や明治では大学当局が体育会を組織的に動員、さらにあろうことか早稲田にいたっては警視庁機動隊を介入させて学内を制圧、その結果、早稲田闘争は無残な敗北に終わっている。

明治では二千人もの体育会が演壇の周囲を固め、団交会場を完全に牛耳った。そして、集まってきた二万人の参加者のなかから、目障りな自治会執行委員や闘争を担ってきた活動家らを摘発、暴力をともなう威嚇、テロ、リンチを駆使して学外に放逐した。

その間、壇上では理事会代表と学生代表が「粛々」と議事を進めたと言われている。

体育会や応援団による学園の暴力的制圧は、なにも日大だけに限ったことではなかったのである。

さいわいなことに中大の場合、体育会も応援団も機動隊も登場しなかった。簡単に言ってしまえば、団交を斡旋仲介した教授会が理事会と全学闘に、つよく自制をもとめたからであろう。教授会の意向がつよい抑止力となったと言える。

中大闘争は、全学闘をはじめとする学生側の勝利で収束した。とは言え、学生側が一枚岩だったわけではない、二部自治会を握る日共・民青は、全学闘と共闘どころか協調すらせず、独自の闘いに固執した。

全学闘もまた党派ごとに共闘のニュアンスには差異があった。それでも、全学闘が勝利した決め手はいわゆるノンポリ層の結集力である。なかでも特筆すべきは、全学部四年生が一斉に卒業試験をボイコットしたことではなかろうか。

いくら党派が「前衛」を気取って、その勢力を誇示したところで、日頃、「一般学生」などと軽侮している「学生大衆」の蹶起がなければ、党派が望む闘争など「夢のまた夢」なのである。

ちなみに、この時、中大理事会が提示した学費値上げ案は、文系学部(一部)が年間6万円を9万5000円に。上昇率58%。理工学部が8万円から12万5000円に。上昇率56%という内容だった。

しかも、この提案が発端となって学生数を調べなおすと、良心的と思われた中大でさえ、公表された定員を大幅に超える約四倍の超過入学(水増し) が行われていたことも露見した。

なお、参考までに申しそえると、われらが熱愛してやまない日本大学の場合はどうだったのか。すでに1966年度の入学生から値上げが実施され、文系(一部)だけでも10万円となっている。

その際、古田重二良会頭は「日本大学新聞」の問いに「昼間部の学生は負担が大きいが、二部は配慮し負担を軽減している」と胸を張って答えている。

大学入試の際、いくつかの私学の入学案内を取寄せて比べてみたが、この金額、なんと同年度の他大学(早慶・明治・法政など)の約二倍の金額であった。

さらに入学してはじめて気づいたのだが、学生の超過入学(一説では「裏口入学」とも)にいたっては、予想をはるかに超え、四倍どころか十倍以上というのが、わが母校の常態だった。

それでも個人的な感懐を言わせてもらえば、学費を口実した学園闘争にはさしたる関心も同情心も抱かなかった。なぜか。

「値上げと言ったって、われわれの水準まで届いたわけじゃないだろう、まぁ、せいぜいお気張りやす…」てな感じで、つとめて冷ややかに見ていたからだ。

この当時、高等教育機関における「官民格差」はきわめて甚だしかった。冷静な論評のなかには早慶・明治・法政などの私学は比較的低めの設定で、むしろ問題視するなら、国公立の学費だとの意見もあったほどである。

国公立と異なり、私学は初年度に学費(授業料)のみならず入学金、学債などもろもろの寄付金を納入せねばならなかった。したがって、昨今、話題となった消費税のごとき10パーセント程度の負荷などとは、まるで比べようもない過酷な重圧を背負っていたとも言える。

ここに、かの重信房子女史が認められた回想録がある。その記録から主要な数字だけを引用させていただくと「当時の明治大学は、一部(昼間部)二万五千人、二部(夜間部)一万人の計三万五千人の学生が、駿河台、生田、和泉の三校舎で学んでいた…」と言う。

続けて「学生が負担する授業料、入学金、施設費の総額を昭和41年度の他大学と比較してみると、文科系について、慶應義塾大学49万円、早稲田大学42万円、立教大学46万円、同志社大学39万円に対して明治大学は27万円であった。理科系についても慶應義塾大学69万5千円、早稲田大学68万6千円から71万円、立教大学61万円から67万円、同志社大学55万円にたいして明治大学は40万4千円から41万2千円であった」と述べておられる。

これまでの調べで、首都圏の有力私学でもっとも高額な学費を徴収していたのは上智大学であった。1968年に上智大学文学部哲学科を卒業、同年、東京大学文学部に学士入学した知人によれば「上智の学費は年間12万円。ところが、東大はなんと1万2000円。十分の一と知ったときはさすがに愕然とした」そうである。

だから、東大全共闘のみなさんが口をそろえて「日大生は苦学生が多かった」というのも当然ではあるが、あえて私見を述べさせていただくなら「苦学生が多かった」のではなく、大学の飽くなき「ぼったくり」によって「プチブルから転落し、苦学生にならざるを得なかった」と言うのが正しいのではなかろうか。

それゆえ、使途不明金が暴露された時、学生のみならず父兄をふくめて激怒したのも当然であろう。もし使途不明金の総額が報道された通りの35億円相当なら、学生一人当たり概ね2、3万円の損害を負ったという試算が成立する。

それにも関わらず、われらが全共闘は「損害賠償請求」などという姑息な物欲主義に奔らず、愚直にして高潔なまでに「学園民主化」という王道の大義を貫いたのである。ここが欲望と派利派略が錯綜した他大学の闘争との違いなのである。

さて、ここらでそろそろ本題に入ろう。なぜ田村がわれわれを引率して中大まで足を運んだのか。その真意はいったいどこにあるのか。そのことを語るにはまず弁研について説明しておかなくてはならない。

弁研とは、田村と上知之(闘争時、「叛バリ」編集長をつとめた)がつくった文理学部哲学科研究室系のサークルである。結成は1966年の夏か秋の頃と記憶している。

表向きは、ただの勉強会・読書会で研究室の公認もしっかり取得していた。弁証法はヘーゲルからマルクスまでを指示す学問的領域だから、研究室も迂闊に干渉できなかった。

だが、実際のところ、田村と上の真の狙いは、ひそかに弁研を「進歩派」が民主化を目論むための震源地にすることだった。

結成時の会員はほとんどが1966年入学組である。というのも、田村は1965年の入学だが、なにかこころに期すところでもあったのか、1966年に法学部法律学科から文理学部哲学科に転部転科している。日大一中・一高育ちとしてはめずらしいコースを選んだため、哲学科には知己がすくなく孤立していたらしい。

そこで、われわれ新入生を片っ端から掻き集めたわけだが、事情がそこそこわかってくると、われわれは「学年は上かもしれないが、哲学科でのキャリアは同年次」という意識もあって、意識的に「同輩」として接するようになった。田村にすれば、内心、苦々しい思いだったろうが、つとめて気にする様子は見ぜず、素知らぬ顔をしていた。

田村はいっぱしのビートニク詩人を気取り、長髪に黒いトータル・ネックのセーターという人目につくいでたちで、キャンパスを歩きまわり、自作の詩集(ガリ版刷り)を誰彼かまわず売りつけたりしていた。一見、野放図とも思えるが、その反面、やせた躰の腹部を晒で締めつげる細心さも持ち合わせていた。これは体育会や応援団の暴力から、「アカ」と見做されていたわが身を守るための用心だった。

一応、学文連系サークルでは、「進歩派」(「アカ」)の名門とされる社会科学研究会に所属していたが、社研のルーティン・ワークの勉強会などにはほとんど顔を出さず、学生総会や常任委員会が開催される度に、社研を中心とする「進歩派」の一員として出席。やがて不羈奔放な言動で耳目を集め「アカ」としての「悪名」を知られはじめた。

弁研結成時には、すでに熱烈な社学同(社会主義学生同盟)ML派だったが、毛沢東に対して一定の評価はするものの、過度な盲従は意地でも拒んでいた。

むしろ、毛の政敵として文化大革命のとき「走資派」と弾劾され、獄中で野垂れ死に(実際は「虐殺」に等しい)した劉少奇を高く評価していた。

田村によれば、延安に籠って江青女史と「愛を語らっていた」毛沢東より、北方工作隊(都市プロレタリアートの特務工作機関)を率いて抗日ゲリラ・謀略戦を戦った劉少奇のほうがよほど革命に貢献していると言う。

かかる見解からすれば、田村は、かならずしもML派の方針に従順とは言い難い立ち位置にあったようだ。

弁研の発足とシンクロするかのように、田村は社研など学文連系サークルの会員を中軸とした「進歩派」グループを再編成。それを基盤としてGT(学園民主化対策委員会)と称するあらたな組織を構築する。GTはきわめて秘匿性の高い組織で、その構成員の実数すら、いまだにわからないほどだ。

深夜、文理学部(世田谷)のキャンパスに忍びこみ、壁にスローガンを書きなぐったり、ステッカーやビラを貼ったりと、神出鬼没の抵抗運動を展開した。日中でも、空き教室や人気の少ないトイレを調べあげ、ビラを撒くなど、きわめて行動的だった。

そのため、使途不明金が報じられると、率先して三崎町の本部まで出向き、本部周辺の路面にスローガンをペンキで書きなぐり、電柱にビラを貼りまくるなど、大胆不敵で果敢な闘いを展開した。

当時「アルジェの戦い」という映画が日本でも公開された。ヴェネツィア国際映画祭で最高の金獅子賞を受賞した名画で、アルジェ市内におけるFLN(アルジェリア民族解放戦線)とフランス軍空挺部隊の死闘を描いたドキュメント仕立ての劇映画だが、カスバ地区を舞台に地下抵抗運動の様子がリアリスティックに表現されていた。

田村はこの映画にいたく感銘をうけたようで、都市におけるゲリラ戦を学園闘争に置き換えて応用し、さまざまな機略やアイディアを思いついたようである。

あまり知られた話ではないが、田村には労働争議を組織し、学生アルバイトだけの労働組合を結成した経験があった。

たまたま「JAPAN TIMES」のアルバイトに採用されたところ、折悪しくというか、はたまた都合よくというか、職場で待遇改善をもとめて労働争議がはじまった。

発端となったのは別のバイト仲間だったらしいが、たちまち田村がリーダーに祭り上げられ、ついにストライキに突入するという事態にまで発展した。

当初、たかが「学生風情になにができるか」と見くびっていた「JAPAN TIMES」だが、そこは左翼学生のはしくれ、習い覚えた「搾取」、「収奪」、「奴隷労働」などの特異な用語を連ねて労務や人事の担当者を威嚇した。もちろん、田村のことだから相当激烈なアジテーションもぶちかましたようだ。

「JAPAN TIMES」は朝日新聞の系列で英字紙の本紙のほか、朝日新聞首都圏版の印刷と発送を請け負っていた。田村たち学生アルバイトは、それら新聞の梱包と配送が主な業務で深夜から明け方に勤務時間のピークがくる。

きつい仕事ではあるものの、さほど低賃金というわけではなかったらしい。だが、「JAPAN TIMES」は要求をほぼ全面的に受け入れ、組合(初代委員長は田村)も認めた。

いまもむかしも、特別司法警察員である労働基準監督官は「左翼くずれ」がけっこう多い。また職務柄、労働者を保護するのが主たる任務でもある。そういった裏事情をも知りつくしたうえで、田村は嵩にかかって攻めたてたものと思われる。

騒動が大きくなれば、「弱者の味方」を標榜している朝日新聞系の「JAPAN TIMES」としては、いささか外聞が悪い、それで早々と手を打ったのだろう。

ただ、この一件で田村と「JAPAN TIMES」の関係は悪化したわけではない。むしろ、以前より良好な関係となったと言われている。

やがて、学生アルバイトの大半は日大生が占めるようになったが、いずれも田村との縁が深いから、現場の労務や人事の担当者としては、田村に筋を通せば話が速いと重宝がられるようになり、田村がバイト辞めてからも、欠員の補充は田村の推薦で後任人事を決めるのが慣例になった。

こうした関係は闘争中も続き、バイト仲間が新聞の早刷を読み、なにか異変があればバリケードに知らせてくる通報システムが出来上がっていた。

こうした成功体験が田村に大いなる自信を抱かせたことは間違いないだろう。

それに加え、われらが母校をも含むこれまでの学園闘争の歴史を熱心に学び、そこから教訓を得ようとしていた。

「お前ら、これを読んでおけ」と手渡されたのは「早稲田をゆるがした150日」(単行本)だった。「必読文献」のなかには、「文芸」に掲載されたばかりの野口武彦の小説「洪水の後」もあった。これは早稲田闘争を背景にした甘ったるい青春恋愛小説だが、描写のなかに体育会のバリケード潰しを撃退するシーンがある。襲撃してきた体育会のなかに、六大学で名を馳せた野球選手(ピッチャー)を発見した闘争学生が「二度と来るな。今度来たら、神宮で投げられないようにしてやる…」と叫ぶのだ。ここが「読ませどころ」なのであろう。

それから、題名は忘れてしまったが、「中央大学文化連盟」が編集した総括文集(冊子)がある。

中大の中庭で闘争を観戦してから、さほど時間が経っていないのに、はやくも総括がまとめられている手際のよさに感心したものだ。

明大闘争に関して、田村は意外なことに寡黙を貫き、たった一度、苦々しい表情でこう呟いただけだった。

「BUND(社学同)がさ、体育会に殴りこみをかけたんだ。ところが返り討ちに遭って、敗けも敗け、完全なボロ敗けだった…。慢心から体育会の戦力を見誤ったせいだ」と。

田村の語った「感懐」が真実かどうかはわからない。しかし、全学バリストを展開しながら、BUNDがボス交とされる「暁の調印」に応じざるを得ない窮状に陥ったことは事実である。

われわれを中大の中庭に誘ったのは、田村が「あの闘争」を予見したからなどとは言うまい。

だが、学園闘争におけるストライキと大衆団交を体験させ、なにかと軟弱なわれわれを鍛え、その士気を高めておこうという魂胆(遊び心)だったことは間違いない。

この時点で、田村はたかだか哲学科を代表する一介の常任委員に過ぎない。だが、弁研やGTでのそれまでの活動実績と「人誑し」という得意技を駆使し、思想・信条を超えた広範なネットワーク(新旧の左翼のみならず、農本主義、日本浪漫主義、国粋主義を奉ずる中間派・保守派そして極右まで)を構築していた。

そして、学生会の内部(学生会執行部+学文連)に、「進歩派」勢力の橋頭保を確保し、ある程度の影響力を発揮し得る存在にまで成長していた。

もし仮に、「あの闘争」が起こらなかったとしても、田村のバックヤードには「一波乱」起こせるだけのファクターが控えていたのである。

なかでも学文連を完全掌握していたことの意味は重い。文闘委を結成したとき、これが組織の「正統性」を担保する大きな要素となったからだ。

「68年度学生会執行部副委員長(文闘委書記長・弁研会員)。同年度学文連委員長(全共闘財務局長兼文闘委副委員長)。学文連の副委員長以下運営委員は、全員が、闘争時、文闘委と行動をともにする。うち一名は執行部の文化部長であり、別の二名が文闘委の財政部長と救対部長に就任。運営委員中二名は弁研会員。なお、哲学科学生会(ほぼ半数の役員を弁研会員が占め、そのなかの副委員長が文闘委の初代行動隊長となった」。

補記

わたしの知るかぎり、68年、中大の学費値上げに抗したのは全学闘(全学闘争委員会)であって全中闘(全学中央闘争委員会)ではない。たしかに全中闘も68年に結成されているが、その時期は夏以降である。全中闘が全学闘を継承したとしても、同一組織とは言い難い。

かつて、ある会合で、冒頭に記した中大での挿話をほんのさわりだが語ったときがある。

すると、わたしの発言をさえぎって「それ全中闘ね…全中闘…」と得意満面で仰せられた芸闘委の方がおられました。

その方は田原総一朗のインタビューを受け、闘争について滔々と語られたようですが、後日、そのインタビューを拝読させていただきますと、闘争から三十余年も経っているにもかかわらず、すでに聞き飽きた類の「神話」(都市伝説)を蒸返されているだけでした。

一読して、正直なところ鼻白む思いでしたが、ひとそれぞれに思いのほどは違うのですから、なにも申しあげません。

ですが、もし、全共闘の一員を自負されるなら、一知半解の知識で語ることだけは、くれぐれもお控えいただきますようお願いいたします。

また、あるHPで経闘委の方が「SFL」(学生解放戦線)を「Student Freedom Line」などと珍妙な英訳をされておられましたが、正確には「Student Front of Liberation」なのではないでしょうか。

この方は、党派に走った全共闘の学友を同じHPで「蛆虫」呼ばわりして物議をかもしたことがあります。たとえ党派がどれほど嫌いであっても、かつての学友に対して礼節を欠く行為は許されることではありません。

ここは謝罪のひとことがあってしかるべきなのでしょうが、四半世紀経った今日まで、謝罪されたと聞き及んでおりませんが、いかがなさったものでしょうか。

つぎに、約六十年前の貨幣価値について記述しましたが、現在の価格と比較するため、当時の物価を記載しておきます。

喫茶店のブレンド・コーヒー 40円、ホット・ミルク 30円。町中華のラーメン 50円。

新幹線(東京から大阪)運賃+料金 5030円(一等車。現在のGreenに相当)。

学卒社員の初任給(1970年) 平均3万円(東証一部上場企業)。

ポロシャツ(LACOSTE) 5000円。リクルート・スーツ(KENT) 7万円。

なお、偏った選択だが、参考までに「書籍」についても記しておこう。

「蒼ざめた馬」(ロープシン著。現代思潮社。函入。ハードカバー。 540円)。

「カタロニア賛歌」(ジョージ・オウエル著。現代思潮社。函入。ハードカバー。 700円)。

「アデン・アラビア」(ポール・二ザン著。晶文社。580円)。

「スペインの遺書」(ケストラー著。ペリカン社。函入。ハードカバー。 750円)。

本稿より敬称を省略させていただきました。なにとぞ、ご了承のほどを。

文責: 大場久昭


コメント

“EPISODE №4” への1件のコメント

  1. […] ”EPISODE №4”(カテゴリー”日大闘争秘録”)を掲載しました。 […]

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