全共闘秘録

~68/72日大闘争、その「隠された栄光」についてのモノローグ~

9.30大衆団交勝利の瞬間

「グラフ日大闘争」(五同産業出版部)より

年表 「新版反逆のバリケード」より抜粋一部加工

EPISODE №3

まことにふしぎなことながら、これまで誰ひとりとして「日本大学全学共闘会議」の組織名称やその選定のいきさつ、また人事構想(ある意味「抗争」でもあったが)について、まともに言及することがなかった。

たしかに安全上の配慮から、闘争の期間中、全共闘はもちろんのこと各学部の闘争委員会も、こと人事については公表を控えていた。そのため、ひとびとの「記憶」はあっても、それを確かめられる「記録」がなかったのである。

そのため、本来ならば特筆されるべき「全共闘を結成した六人衆」の名は、闘争の最後まで明らかにされることがなかった。

そして、闘争から四十年を閲した2008年、「新版・叛逆のバリケード」(三一書房)が刊行され、その末尾に記載された年表のなかではじめて公になった。

あらためてその「六人衆」の名をここに認めておこう。

議長・秋田明大(経四)。副議長・矢崎薫(法四)。書記局長・田村正敏(文四)。財務局長・中山正宏(文四)。組織部長・今章(法三)。情宣部長・戸部源房(経四)。

なお、一部の役職名が「新版・叛逆のバリケード」の記述と異なるのは、その後の証言や史料にもとづく検証によって判明した事実を採用したためである。

この人事、一見すれば学部ごとの割りふりでは、バランスのとれた、しごく真っ当な人事といえよう。が、しかし、「党派」という視点からみれば、説明するまでもなく、あきらかに「ある党派」に偏った人事でもあった。

おそらく「六人衆」の顔ぶれや、「全共闘」名称の採用などは、ほぼ秋田、矢崎、田村だけの密議で決められたようである。また、具体的な闘争のプロセスの策定なども、二百メートル・デモがあった5月23日までには、ほぼ確定していたと推測できる。

鳥越さんはつぎのように回想している。

「この日(5月23日)の夜、新宿の喫茶店『らんぶる』で人事が内定した。議長は秋田、副議長は矢崎、書記長(正式には書記局長)は田村、財務局長は中山(正宏)と、ここまではほぼ決まっていたが、戸部と今(章)のポストが未定のままだった。

今を『らんぶる』に呼び出し、組織部長か情宣部長のどちらかを選べとなった。

ま、どちらを選んでも大差ないのだが、今はややあきれた表情で組織部長を選んだ。

しかし、それにしても田村が文闘委(文理学部闘争委員会)委員長までを兼任するとは思いもよらなかった」。

「影の執行部」だった綜研の丸井さんによれば、矢崎さんをはじめて認識したのは、錦華公園での集会(5月24日)からで、秋田さんから「こんど(全共闘の)副議長をやってもらう法学部の矢崎君だ」と紹介されたときだった。

もともと、丸井さんは徹頭徹尾「党派嫌い」であり、寄って立つべき組織の中枢から可能な限り「党派色」を排除したかった。

にもかかわらず、なんと秋田さんは党派色のつよい人事を選択したのだから、このような人事には大いに不満だったにちがいない。

ただ、丸井さんのような一言居士の存在がなければ、われらが「全共闘」は、もっともっと「党派色」に色濃く染め上げられ、つまりはなんの変哲もないただ平凡な「全共闘」に終始したかもしれない。そう思うと、つくづくわが「全共闘」はなんと幸運だったのかと感謝したくなるほどだ。

なお、当然のことながら、「ある党派」に対抗心を燃やす「別の党派」の面々にとっても、丸井さん以上に、この人事は容認できなかったらしい。意識的かつ意図的に自派をことさら疎外していると見てとったからだ。

この時代の党派人にとって人事とは、ときに党派間の「抗争」にまで発展しかねないセンシティブな問題でもあった。

いきりたつ面々をひとまず宥めて、なんとか分断を回避したのは、のちに法学部闘争委員会(法闘委)委員長となる酒井杏郎君(法三)だった。

ひとまず、酒井君の説得(というより「説諭」)で矛を収めはしたものの、この問題は闘いの進展にともない熾火のように燻り、そして、のちのち蒸しかえされていくが、その詳細はおいおい別稿に譲ることにして、先を急ぐ。

ともあれ、わが「全共闘」は、かかる「火種」を孕みながら、ようやく生誕の産声をあげたのだった。

二百メートル・デモの翌日(5月24日)、集会の会場だった経済一号館地下の学生ホールは、早朝から当局によって封鎖された。学部当局によって動員された体育会や応援団との衝突もあり、学内は混乱の極みに達した。さらに、なんとも愚かなことに、突然の「休講」宣言などによって、とうとう経済学部は機能喪失状態に陥った。

この日から、われらが「全共闘」はなんと「路上の全共闘」を余儀なくされたのである。だが、学部当局が期待したような「路傍の全共闘」にはならなかった。

なぜか、首謀者ら(「六人衆」+「影の執行部」)の目論見は「公然化による闘いの持続と拡大」にあったからだ。

公道である経済学部一号館前で集会を開けば、前日を上回る学生が続々と集まってくる。錦華公園までデモ。錦華公園で集会ののち、隊列を整え、ふたたび一号館前にもどって気勢をあげる。さらに本部前での座りこみ(シット・イン)を終え、日没後、抗議行動の解散を告げても、学生の多くはその場を去らず、三崎町のいたるところで路上ティーチ・インを繰りひろげた。

こうした熱気は、前日に決行された二百メートル・デモの余韻のせいばかりではないだろう。

当日、新聞報道で二百メートル・デモが報じられたことも影響していると思われる。

記事を掲載したのは全国紙二紙で、どちらもうっかりすれば見過ごしてしまうほどの短信だが、それでも、ある種の衝撃をともなって「今、三崎町でなにが起こり、なにがはじまったのか…」を的確につたえるものだった。

この新聞報道、自然の流れだと思いこんでいたとしたら、それは大間違いである。記者が取材の過程でたまたま二百メートル・デモを「目撃」なんてことはドラマの世界の出来事であって、現実では起こりえない、いや起こるはずがない。その日その時、確実になにかが起こると確信しない限り記者は行動しないからだ。

二百メートル・デモまでの抗議行動はすべて学内での行動である。にもかかわらず、はじめての街頭行動である二百メートル・デモだけが予告され、その予告通りにデモが起こった。

上手く出来過ぎたはなしではないか。誰がこのネタを拡散させたのか。

ざっと「六人衆」の顔ぶれを見わたし思い当たるのはたったひとり、そう田村君だけである。

田村君なら、新聞社や通信社にお願いするのではなく、あざとい口調で「明日、日大で絶対面白いことが起きます。取材にこなかったら御社はきっと特オチで恥かきますよ…」てなことを平然と言ってのけ、記者の関心をひきつけられる人士であるからだ。

さらに、秋田さんの茫洋とした風貌、訥々とした応答、そして細やかな気遣いは、記者たちに好感を抱かせたものと思われる。

なお、最後に一言申しそえておく。二百メートル・デモを経て「路上の全共闘」となってからバリストに突入するまでの間、経短学生会のある執行部員は、集会とデモのたびに事前申請のため所轄署を訪れ、都公安委員会の許可を取得している。

ひとえに「路上の全共闘」の法的正当性を担保するための行動である。かかる名もなき学友のささやかな闘いに、もっとリスペクトを…。

文責: 大場久昭


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  1. […] ”EPISODE №3”(カテゴリー”日大闘争秘録”)を掲載しました。 […]

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