蹶起の前夜、経短学生会秋田明大委員長はひとり懊悩のすえ、重要なふたつの会談に臨んだ。会談をもちかけたのは秋田委員長のほうからだった。日時はいまもってわからないが、おそくとも五月十八日の前後と推測される。
会談のひとつはOBの面々が相手だった。日大闘争救援会代表の清宮誠さんと文理学部数学科の同期で、救援会のメンバーでもあった土倉久仁男さんはこう述懐する。
「経済学部の『四・二〇事件』のあと、暴行の被害者だった執行部の藤原(嶺雄)君らを救援しようと全学のOB会がひそかに結成された。その活動は秋田(明大)君が委員長になって執行部をとったあとも、ずっとつづいていた。
ある時、秋田君がOB会にやってきて、『闘争をはじめることにした』と言った。当然、わたしたちは反対した。学内の状況にさほどの変化はなく、ここで蹶起しても『四・二〇事件』の二の舞になると、誰もが思ったからだ。
すると、秋田君の顔つきがとたんに厳しくなり、きっぱりとこう言いきった。
『すでに闘争をはじめる決心をしました。だから、あなたがたは、わたしたちを背後から支えてくれればいい』。
そこまで言いきられると、もう秋田君に反対はできません」。
つぎが「市谷四者会談」である。とはいえ、この会談を当事者たちがそう呼んでいたわけではない。当事者のひとりである日比野光男さんに懐古談を聴取のあと、わたしが思いつきで「市谷四者会談」とネーミングしたものである。
日比野さんは英文学科OBで、文理学部時代は社会科学研究会(社研)で委員長をつとめ、また学術文化団体連合会(学文連)の広報部長も経験していた。党派は社会主義学生同盟ML派。わざわざ三崎町に足をのばして学習会を主宰するなど、活発な活動家だったが、人柄のせいもあってか、学生課もほぼ黙認状態だった。
「闘争がはじまる直前、市谷のアパートに住んでいたわたしを訪ねて秋田君がやってきた。当時、そのアパートの一室でわたしは田村(正敏)君や矢崎(薫)君と共同生活をしていた。
秋田君の表情は、心なしかちょっと思いつめた感じだった。田村君や矢崎君が同席した上で、はじめに秋田君がこう切出した。
『実は、使途不明金の追究を足がかりに闘争を組織したいのだが…』
正直なところ、わたしは反対だった。当時の状況からいって闘争が結実するとはとても考えられなかった。過去の闘いの経験からして、蹶起してもたちまち暴力的に粉砕されるのがおちだろう、と見ていたからだ。
すると、秋田君の表情が一変し、語気をつよめて、叫ぶような口調で言った。
『もう蹶起するしか途はないんです!」と。
そこまで決意を固めている以上、もはや反対論を述べることはできなかった」
と日比野さんは語る。
これまでの調べによると、秋田さんがとったこれらの行動は、ほぼ独断専行だったようだ。
それでも、事後になって、経短学生会執行部の一部とのちに「別働隊」または「秋田フラクション」と呼ばれる「影の執行部」(領袖は綜研の丸井雄一さんと経済社研の戸部源房さん)にだけは告げていたらしい。
この会談のあと、田村君は文理社研ならびにGT(学園民主化対策委員会)のメンバーを中心に二十人ほどの会合(「市谷フラクション」)を主宰し、共闘態勢の構築について出席者の意思を問うた。
GTというのは、田村君を領袖とした学園民主化勢力のなかでも秘匿性の高い組織で、深夜、文理学部のキャンパスに進入、壁にステッカーを貼ったり、空き教室にビラを撒いたりと、神出鬼没の抵抗運動を展開していた。使途不明金が報じられると、わざわざ三崎町の本部まで出向き、路面にスローガンをペンキで書きなぐり、電柱にビラを貼りまくるなど、きわめて行動的だった。
さらに、三田魚籃坂の寺院で経済・法学・文理・理工の四学部の代表者がひそかに会合(「魚籃坂会議」)をもった。司会役はのち全共闘副議長となる矢崎さんだった。「蹶起には時間がかかる」という理工をのぞく三学部は蹶起に同意、同時進撃をめざして、急ぎその準備に取りかかった。
当然のことながら、出席者の多くは初対面であった。わずかに文理社研でのつながりや、日共・民青をふくむ党派がらみの集会などで面識があった程度。ありていに言えば、淡きまじわりの間柄である。これらのひとびとが思想・信条はもちろん党派・非党派、学部・学年・学科の違いを越えて結束し、全共闘のコアとなる基盤を形成していったのだ、あらためて驚嘆するしかない。
五月十八日。この日、経短学生会は学生委員大会の開催申請を学部当局に提出した。案の定、二十日になって拒否回答が届く。翌二十一日、経短学生会は地下ホールで抗議と討論集会をわずか二十名で開催。もちろん「無届」集会である。これに対し、体育会系学生五十人が動員され、殴る蹴るの暴力行為で集会を妨害するも、最終的に集会には三百名の学友が結集した。二十二日、午後一時から地下ホールでの抗議集会と討論集会を再開。途中、学生指導委員長室前で百名が座り込み。この実力抗議行動について「日大新聞研究会」は「六十年安保時以来、はじめて…」と論評。
もちろん、体育会系学生も動員され議事進行をしばしば妨害、ときには暴力行為をともなうものであったにもかかわらず、屈することなく集会には四百五十名が結集し、午後五時半まで続行された。
集会解散後、経短学生会は校舎の内外で脈がありそうな学生らを呼びとめ、喫茶店「白十字」での討論会に誘い、そこで「学生」から「学友」になるよう説得した。
そして、運命の五月二十三日をむかえる。この日、偉大な、そして栄光の二百メートル・デモが出現する。だが、その前に「日大紛争の真相」(日大新聞研究会編)によれば、経済学部の界隈で、はやくも「全学共闘会議」の名でつぎのような内容のビラが撒かれたという。その全文を紹介しておこう。
「全日大の学友は団結せよ!
○学生の三十五億円を返せ!
○学生集会を獲得せよ!
○四・二○歓迎会拒否に抗議する!!
全学友諸君に訴える!
学友諸君も、新聞・報道で知ってのとおりではあるが、
我が日大において二十億円あるいは三十億円、そして
今日では三十五億円とエスカレーションしている使途
不明金(脱税)は誰の金なのだろうか? それは云うまで
もなく日大生個人の、そして、その親の兄弟の血と汗に
よって、はじめて可能とされた金なのである。
(この金は一部の理事、教職員の私腹を肥やしている)
この三十五億円の追求を学生の主体的発現の場であり、
最高の決議機関である学生委員大会において行なおう
としたところ、日大当局は『使途不明金については学
生が話す必要がない。大学が大学見解を出す』と云う、
一方的拒否理由でもって、不当にも学生の自治活動の
最低限度の学生委員大会さえも拒否してきた。かかる
暴挙、弾圧に対して、我々学生は昨日(五月二十二日)
断固とした抗議の姿勢をもって学生集会で大学当局の
不当性を暴露するため実力で貫徹した。(学生指導委員
長室の前で六百名の学友が文字どおり座り込みを勝ち
取った) 我々は、大学当局の不当性と弾圧に対して、
これにこたえようではないか。
地下学生ホールに結集せよ!
日大全学共闘会議」
文責: 大場久昭



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