全共闘秘録

~68/72日大闘争、その「隠された栄光」についてのモノローグ~

9.30大衆団交勝利の瞬間

「グラフ日大闘争」(五同産業出版部)より

1968年5月23日

EPISODE №1

まずは「栄光の二百メートル・デモ」から語りはじめることにしよう。

今もって日大闘争の起点を「二百メートル・デモ」にもとめるひとは多い。だが、すでに学内では萌芽的な闘いが生まれはじめていた。

ただ、それらの闘いは学部という領域を越えられずにいた。その学部領域を一気に崩壊させたのが「日本大学全学共闘会議」であり、「二百メートル・デモ」は、その全共闘誕生への大いなる助走だった。

だから「二百メートル・デモ」は自然発生的でもなければ、偶発的に起きたわけでもない。精緻ではないにしろ一定の展望を切り開く組織者の知恵と勇気がはたらいていたからである。

もう二十年ほど前のことになるが、たまたま経短学生会文化部長で経済学部闘争委員長をつとめた鳥越敏朗(経四)さんに質問する機会があった。そのとき、鳥越さんは淡々とつぎのように語ってくれた。

「5月23日の地下ホールでの抗議集会には、ほかの学部からも出席者がいた。実を言えば、前日の夜、都内で中核派の政治集会があり、その集会にかなりの日大生が参加するという情報を得て、わたしは会場に赴いた。

そして、その集会でこう訴えた。『明日、経短学生会は経済学部の地下ホールで集会を開く。学園の民主化に意欲と関心のある学友は学部を問わず参加してほしい』と。

だから、当日の集会にはほかの学部からの出席者が相当数いた。ところが、学部当局は学生証検査をするといって検問態勢を敷き対抗してきた。学生課に彼らをむざむざと捕捉させるわけにはいかない。

そこで、彼らを真ん中に包み込むように隊列を組み、検問のピケット・ラインを突破し、学外に送り出そうとなった。地下から一階に、そして学外に出ると、白山通りを水道橋の駅付近まで隊列を維持しながらデモった。いろいろ囁かれているようだが、わたしが思うに、これが二百メートル・デモだ」

鳥越さんが言う「二百メートル」というのは、実測の距離ではなく、学友の安全を見届けるまでの「距離」を意味する。事実、このデモ隊はその後、白山通りから東に折れ、錦華公園にむかったのだから、「二百メートル」はデモ行進のほんの一部に過ぎない。

だが、経短学生会が意識的に組織したはじめての街頭闘争を象徴する意味で、またその間発揮された学友の「絆」を強調しているものと思われる。

つぎに橋本眞史君(経一)の証言を紹介しよう。当時、経済学部の一年生は、世田谷と三島にある文理学部で一年間の教養課程を受講するのか一般的だったが、なぜか橋本君らのクラスは、最初から神田三崎町にある経済学部の本校舎で受講するという特別あつかいだった。

「抗議集会がはじまるまで、地下ホールは憩いの場だった。そこは授業の合間にともだちとタバコを吸いながら談笑する場だった。そこが、突然、集会の場になって、これで憩いの場がなくなった、弱ったと思ったほど。そのころはまるで闘争に関心がありませんでした。

二百メートル・デモの日も校舎の外でガール・フレンドといっしょだった。そこに、突然、デモ隊が現れた。そして、デモ隊が経済学部から隣接する結核予防会の前を通り、水道橋の駅方向に進みはじめたとき、思わずガール・フレンドを置き去りにしたまま、ひとり隊列に加わっていました。

隊列は東洋高校のところで、いったん停まり、それから右折して進んでいきましたが、わたしはここでデモ隊から離れ、ガール・フレンドの待つ場所までもどりました。これが、闘争に関わるきっかけとなった、二百メートル・デモの体験です」。

奥住好雄君(文一)の場合、前述したふたりの体験や見解とは異なっている。

「社会学科なのですが、たまたま、サークルの新人勧誘で文理学部にきていた法学部政治経済学会に入会しました。そうです、矢崎(薫)さんや酒井(杏郎)さんが所属していた法学部に本拠を置くサークルです。

わたしの場合、動員されたというより、偶然その場に居合わせたようなもの。あのころ、毎日のように法学部三号館にある政経学会の部室に顔をだし、勉強会などに参加していました。あの日、いつものように部室に顔をだすと、これから経済学部の抗議集会に合流するが、『君は文理なので、ばれたら危険だ、ここで待機してくれ』と言われ、そのまま部室で控えていました。

やがて廊下のほうから『学友が地下ホールに閉じ込められたから助けに行こう、みんな集まってくれ』という叫び声が聞こえ、まわりの部屋からもひとが続々出てきました。三号館裏手の集合場所にむかうと、すでに五十人ほどの隊列が出来ていました。三号館を出発したときは、七十から八十人くらいかそれ以上になっていたと思います。

三号館から本部前を経て経済学部へ、スクラムを組みながらのちゃんとしたデモでした。本部付近には学ラン姿の体育会や応援団がずらりとならび、いつ襲われるかと思うと怖かったですね。もう、冷や冷やドキドキの連続です。

とりあえずデモの掛け声は『わっしょい』でした。本部前を通過するころから、後続の学友が増えだし、経済学部に着いたときには二百人くらいになっていました。

なんの妨害もなく地下ホールにむかうと、地下は熱気で息苦しかったのを憶えています。もっとも、地下ホールには満員状態でたどり着けず、階段の中程から腰をかがめてなかの様子を窺うと、監禁されたり、暴行があった形跡はありませんでした。

その後は、地下ホールにいた学友と校舎の外に出てちかくの公園までデモ。といっても、きっちりスクラムを組んだのではなく、まとまってゆるやかに行進しているような感じです。シュプレヒコールもなかったように思います。

公園で抗議集会をして解散。公園から水道橋の駅までは危険だから、みんなでまとまって行こうということで二手に分かれました。白山通り組と法三号館組です。わたしは法三号館組でした。

わたしが『二百メートル・デモ』という言葉をはじめて発見したのは『文理時報』の記事です。記憶では五月中に発行された号だったと思います。法三号館から経済学部にむかうデモ隊の記事が写真つきで掲載され、その見出しに『二百メートル・デモ』の文字がありました。それであのデモが『二百メートル・デモ』だったのかとわたしは考えています」。

ちなみに現在所有する『文理時報』のバック・ナンバーを調べてみたが、該当する号は見当たらなかった、入手しそこなった欠番かまたは号外だったのかもしれない。

余談ながら、日本大学新聞研究会は、この日、前述したデモとはあきらかに違う別の街頭デモを伝えていて、こちらを「偉大なる二百メートル」と呼んでいる。

その概要をまとめると、そのデモは経済学部一号館から日大本部に抗議行動を仕掛けたが、本部前には二百人ほどの体育会系学生が待機し、阻止線を張っていたため、衝突を回避し、法学部二号館の前で約二千人の学生が集まり、総括集会。

ふたたび経済学部一号館にもどって抗議行動を終えた。以降、経済学部から本部までの間を「偉大なる二百メートル」と呼び日大生の意識覚醒の地となった…云々。

いわゆる「二百メートル・デモ」がどのデモだったかを、今さら特定してもなんの意味もない。

ただ言えるのは、それまで学内闘争だったのが、街頭闘争に発展し、そのことによって闘争が可視化され、闘争の急速な展開がはかられたという事実である。

その象徴として、この日のデモに「二百メートル・デモ」というネーミングが付与されたのだ。そう考えれば、関わったデモがすべて「二百メートル・デモ」だったと思えばいいのではないか。なぜなら、この日のあらゆる行動が、全共闘誕生への大いなる助走だったのだから。

(引用/転載不可)

文責:大場久昭


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